よみがえった少年
美津子
 新年礼拝に一人の少年が来ました。H.K.くんという中学二年の少年です。Hくんは昨年の10月、単車に乗っていてトラックと正面衝突をして、救急病院に運ばれました。無免許で無茶なことをしたのです。
 「昏睡状態で命も危ないらしい。今日明日の命やと言われているから、祈りに行ってあげて」
 Hくんのお母さんと親しいK.M.さんから頼まれました。「お母さんがなんとしても来て欲しいって言ってはる」 Mさんの声にはお母さんの必死な思いがいっぱいにあふれていました。
 ピーター先生と私はすぐに救急病院に向かいました。Hくんはベッドに酸素呼吸器をつけて寝ていましたが、意識はありません。一目見てどんなに大変な状況かが分かりました。
 ピーター先生と私は手を置いて祈りました。祈る時はいつもそうですが、主が祈っておられるのを何よりも強く感じるので、その祈りに私の祈りを合わせます。
 ふしぎなことに管が入れられているところ、状況がよくないという肺に手を置きたいという思いがほとんどしません。私の手はHくんの頭、それも左側に置きたい思いが迫ってそこに手を置き続けました。手の下で血液なのでしょうか、何かがゆったりと流れ出て行く感じがしたかと思うと、「この子は助かる」という思いがしました(あとで聞くと、私は首や腰などHくんの悪いところにはすべて手を置いたのだそうです。「神様ってすごいと思った」ということを聞いてうれしくなりました)。
 目の前の少年は危険な状態のただ中だというのに「すでにいやされている」という思いです。こういう時、私は考えてしまいます。この確信をどう伝えようかと逡巡してしまうのです。「すっかりよくなりますよ。すでに神がいやしてくださいましたから」 これが真実です。しかし医者が危ないと言っている人に、それもまだ神を知らない人に、信仰にある確信を伝えて、万一のことがあったら傷つけてしまう、ぬかよろこびさせてしまう―実に私の信仰はどこにあるのと問うくらいに情けなくなってしまうような迷いを覚えるのです。
 私は神のいやしを疑ったことはありません。たとえ死んでも神のいやしは完全なのです。十字架に主が命を捨てられたからです。しかしこれは主を知る人には分かることであって、ふつう誰にでも分かってもらえることではありません。いやしとは見た目にも元のように、いや元以上に元気になること、というのがふつうの考え方だからです。主を信じている人でも、祈られた人の病状がよくならなかったり、時には亡くなられたりすると、信じたことがまちがいだった、信じてソンをしたという痛みを訴えられる人がいるくらいですから。
「もう心配しないでください。主がいやしてくださいますから」
 私はいやしの確信をこんなふうに伝えたと思います。ところがピーター先生はきっぱりと一言。
 「この子は助かるからね」
お母さんの顔が輝き、「わあ、そうですか、ありがとうございます」。もう命がないと言われている子供を前に「助かる」と言ってしまわれたピーター先生。私ももう迷いませんでした。主がいやされたのですから。
 そしてあとで聞きました。私が手を置いたところは脳の内出血が起こっていたところ(そしておそらく内出血がたまっていたところ)であったこと。翌日にはHくんは意識を取り戻し始めたと。
 ほんとにうれしかった。きっとこの翌日か翌々日が日曜日だったのでしょう。お母さんが教会に来られ、礼拝後、Hくんが危機を脱したことを話してくださいました。私は会堂に残っている人々に主がしてくださったいやしの話しをしました。皆拍手をして共によろこびました。さらにしばらくして妹さんも来られ、洗礼を受けられました。これが昨年の10月でした。
 そしてそれから二ヶ月余り、新年礼拝にHくんが来ました。
 Mさんからは少し前に聞いていました。「あの子がばあばに僕の歩く姿を見せたい、親に恩返しするで、と言うくらいによくなったよ。今度の日曜日に教会に来るって‥‥」 ばあばとはMさんのことだそうです。
 私は救急病院のベッドで意識がなく、ただ眠っていたHくんの顔しか思い浮かびませんでしたが、その子が来る。それだけで感動でした。
 礼拝が始まった時、前に立った私の目の先に一人の少年がいました。ベッドにいた時の顔とは全くちがうけれど、一目でHくんだと分かりました。目がキラキラと輝いて私を見ていました。私は泣きそうになるのをこらえるのが苦しかった。こんなに小さな顔の、きれいな目をした少年だったんだ。あの時はまだ赤い色をした傷あとがついたままの、しかも三倍くらいに腫れ上がった顔をしていました。顔だけではない。足も全身が腫れ上がっていました。主はよくぞいやしてくださいました。
 この子が二〇〇七年の新年礼拝での最初の洗礼者となりました。祈ると足の骨が動いたような気がしましたが、衝撃で歪んだのかずれたのか、主がHくんの腰や腰椎をいやされたのだと思います。
 片側に少しマヒが残っていると聞いていましたが、祈った時にはそれもありませんでした(と感じました)。ああ、この少年は神様にお礼を言いに来たんだなと思いました。主のいやしとはすごいですね。死んでしまいそうな者を生き返らせてくださった。
 この少年はよみがえりのいのちに生きるようになりました。
 あとで、たくさんの人がこの少年のいやしに感動したと言って来られました。「あの子供さんを見て、あの話しが聞けただけでも感動です。この感動で一年もちます」主がしてくださることは、一年どころではない。永遠までもよろこびとされますね。
 昨年の白いトリ(「ぶどうの木」二〇〇六年十二月号参照)、そして桑の実の話し(「ぶどうの木」2007年1、2月合併号参照)に続いて、よみがえった少年です。風の教会に対する主の願いがあらためて迫ります。主は新しい年に入ったことを知らせてくださっているのでしょう。愛の年はよみがえりのいのちの年です。主の願いがこの年に成る。

2007年2月3日
PS 
 さらに一ヶ月後の日曜日(二月四日)、再びHくんが礼拝に来ました。彼の幼な友達という少年と、Mさんの娘さんも一緒でした(もちろんHくんのお母さんも妹さんも一緒です)。幼な友達の少年はすでに神様を信じているというのが分かりました。Hくんを見て神を信じないではおれなかったのだろうと思いました。彼も洗礼を受けました。
 Mさんの娘さんは再洗礼を受けました。Hくんのいやしを見て「神様を見た」と言います。私は文字通り死から生還した一人の少年にあふれる主のいのちを見るのです。このいのちは多くの人に流れてゆくことでしょう。

2007年2月13日

(c)Kohitsuji no Mure Christ Curch