もうひとつの目     
美津子
 イエスさまが十字架にかかり死んで三日目によみがえられ、そして今も生きておられる、ということを事実として知るか、あるいは単にそう信じたい人だけの思い込みであると見るかということは、その人の生き方を全く違ったものにしてしまいます。イエス・キリストを歴史上に名が残っている人物の一人として見るか、それともあなたの神であると見るかということは、人の生き方そのものにかかわってくるからです。自分で見て、自分で考え、自分で判断してきた人間にとって、自分を造られた創造主である神の存在を本当に知るということは、自分の生死以上のことなのです。自分で自分を生きていたつもりが、実はすべてが神の支配にあるということを認めることだからです。
 そして、イエス・キリストを私の神と信じる時、この方が私のために死んでくださり、今も生きておられるということが、そして、私のために働いてくださっていることが、信じようとするからではなく、分かってしまうのです。
 イエスさまは日々、ひとりひとりの人が、さらにさらに信仰が深められ、神の願いに応えられるようにと、あらゆるチャンスを使って示しておられるという気がするのです。そこに人間の本当の幸せがあるからです。
 今から二千年前、イエスさまは死んでよみがえられてから、弟子たちの間に現れました。いつ自分たちも捕えられて処刑されるか分からないと恐れていた弟子たちのところに入ってこられました。この時その場にいなかったトマスは言いました。「私はその手に釘あとを見、私の指をその釘あとにさし入れ、また、私の手をその脇にさし入れてみなければ、決して信じない。」自分で確かめないと、イエスさま御自身がよみがえって今生きておられることなど信じられないということなのです。
 すると、イエス様は次にトマスもいたときに現れ、そしてトマスに向かって話されました。

あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばしてわ たしの脇にさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。  (ヨハネ 20:27)

 あえてトマスに御自分の手をさし出してくださったイエスさまです。さあ、自分の目で見、自分の手で触れてみなさい。自分で見なければ信じないと言うお前に見せるんだよ。信じない者にならないで、信じる者になってほしいんだよ。
 ひとりの人が信じる者になれるように、イエスさまは手の平の釘あとを見せに来てくださったのです。あなたの中のトマスに、私の中のトマスに近づいて、釘あとを見せ、さわらせてくださるのです。
 トマスはかつてイエスさまが、死んだラザロのところに行こうと言われた時、「私も行って、先生と一緒に死のうではないか」(ヨハネ 11:16)とまで言った人です。それほどにイエスさまが好きだったのでしょうね。そこまで言ったトマスが、又ラザロの復活を目の前で見たはずのトマスが、そして、くり返しイエスさま御自身から死と復活を教えられていたトマスが、自分の目で見るまでは、イエスさまのよみがえりは信じられなかったのです。 手の平の釘あとをさしだされたトマスは叫びました。

  わが主よ、わが神よ。      (ヨハネ 20:28)
 
 トマスのこの一言の叫びには、いっしょに死のうではないかとまで言った自分、主のよみがえりを疑ってしまった自分の痛みから発せられた、深い深い主への思いがあったと思うのです。それまでのトマスは、分かっているつもりだったのです。「よみがえりの主にお目にかかった」という弟子たちの言うことなど信じられるものか。
 大事な先生が、こんなに早く死んでしまわれた失望と悲しみに、かつてのイエスさまの教えなど、とっくに吹っ飛んでしまっていたのでしょう。すると、私は正しい、私が見て判断しなければ信じてやらない、というふうになるのです。
 しかし、イエスさまの手の平の釘あとは、トマスに「自分」のことを忘れさせ、いつも自分を見てしまう、そんな肉の自分がなくなって、ただ目の前におられる方に向かって「わが主よ、わが神よ」と叫んでしまう。キリストだけを見させてしまう。キリストを見るということは、だから肉に死ぬことなのですね。

  1994年11月29日

 
 
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