今から約二年半前のことです。「保谷に集会があるから、来てネ。美津子さんていって、とても美人で素敵な人が来るから」 いつも優しく見守り祈り支えて下さっている「お母さん」のようなNさんと
I さんが誘って下さいました。
あっ! 今ひそかに噂になっている「いやしの人」とかいう人だな。
私の心の中ですでに葛藤が始まりました。「ハイ! ありがとうございます。是非行かせていただきます」と答えながら、「そんな集会に行ってだいじょうぶかな? ほんとうにイエスさまの働きなのだろうか? ひょっとして悪霊によるものだったとしたらどうしよう?」
集会場所に着き、美津子さんの話を聞くまで、「イエスさま、あなたですか? ほんとうにあなたのなさることなら、その女の人が、イエスさまにどう救われ、どういうふうにかかわっているか、教えて下さい。そうでなかったら、私をあなたの中に守って下さい!」と祈りに祈っていました。
美津子さんは「そう、今日は、どうしても私の初めの『白いハト』の話をするようにと言われているように思うので、もうたくさんの方が聞いておられると思うのですけれど、します」とこんな調子で始められました。話を聞きながら、「なあんだよかった。この人、イエスさまと出会ったのか。イエスさま、あなただったんですね」とホッとしました。
安心してすぐのことです。「急いで祈ってもらいたい、どうしても早く帰らなければならないから」という申し出があり、唐突な感じで祈ることになりました。
座ぶとんを並べ、その人が前に出るのです。「何これ? 冗談? 私には無関係、いやされる必要ないもの!」 目を丸くして見ている私の心の言葉です。
しかし、前に出た人が祈られている最中、突然、私の頭の上から、重いゴムでできた、舌のような、手のようなかたまりがドカンと落ちてぶつかり、私の口の中に入ったかと思うと、内臓がひっかき回され、今度は大きなかたまりが口から叫びと共に出ていったのです。その叫びは家の屋根が吹き飛ぶのではないかというほどで、しかも数回あったとあとから聞きました。
私自身は、真暗な真空の中にどんどん落とされ、「あっ私、胎児だ」と思っているうちに、今度は、どんどん明るいところへ引き上げられていく。あまりにそれがスピーディで、理解したり、判断したりすることができませんでした。そのうち、私は投げキッスを始めたのです。「何?」「あっ、礼拝してる。ホラ、主を礼拝してるのよ」という美津子さんの声。
「あーっ! そうか、これが礼拝なんだ」
私の全身全霊がイエスさまの愛に応え、イエスさまを求めてどうしようもなくなっている。これが「霊とまことをもってする礼拝」ということか!
美津子さんが私に手を置くと、私は美津子さんをなでまくり、ついには抱き上げようとしました。私の中のイエスさまが「可愛い、可愛い、いとおしい」と、「一体になりたい」と強く思われたからだと思います。
激しい一連の思いが穏やかになり、やっと目が開けられようになったのですが、私の舌は激しく猛烈に動き回って止まらないのです。一生このままだったらどうしようと心配していると、それは異言だと説明して下さり、伊藤さんがそばで、共に異言を語って、安心しなさいと肩を抱いてくれました。
美津子さんが聞かれました。「ご主人は、クリスチャンですか?」 うなずくと、「連れて来て下さる方がいいと思うワ」 その時初めて、そこにいる娘と、帰る家のことを思い出しました。娘には皆さんが、私の様子は恐れることではない、と説明してくれていましたのでよく理解していて「お父さんとも来るんでしょ。いいよ、寝て待っているから」とまで言ってくれました。その夜、主人も祈っていただきました。
その夜から、聖書はどこを開いても、神さまの「愛しているよ」という語りかけでいっぱいなのです。苦手だったレビ記からでさえ、主の愛が熱っぽく伝わって来るではありませんか! この聖書全部が熱烈なラブレターであり、愛の証明であるとは!
読めば、涙と感動と汗でぐっしょりになってしまうのです。一体、私に何が起こったのでしょう。何がいやされたのですか? 主は「わたしがおまえを母の胎内に造ったのだ。それ以前から、わたしはおまえを愛し育ててきたのだ」と答えられます。
私は捨子で、ほんとうの親を知りません。親は、育ててくれることになる母の手に、デパートのトイレの前で「ちょっと見ていて下さい」との言葉を残して置いて去ったのです。まさかそのまま持って帰れないと思った育ての親は、私を警察に届け、数ヶ月の後に引き取ってくれました。
とても立派できちんとした、とても躾のきびしい両親でした。何不自由なく育てられましたが、私の中にある、人間不信、どうしようもない孤独感、きびしい躾に対する屈折した思いは、自分の子育ての中で火を吹いて出ました。
娘を、私はほんとうに可愛いと思いました。目の中に入れてもいたくないほど。しかし、娘が私の気に入らないことをしたり、他の人から悪いことをしたと聞くやいなや、頭にカーッと血がのぼり、どうしようもない憎しみとなって、娘を叱りとばし、たたきのめすのです。このままでは大変なことになる。祈っても聖書を読んでも解決は与えられませんでした。
しかし、この日から娘に対する憎悪がなくなったのです!
娘を憎んでいたのではなく、私の中にある「私」を憎み、消し去りたいという思いがいやされたことを知りました。そのままで良い、何をしても、どんな失敗をしても、絶対に変わらぬ愛。すっぽり受け入れられている安心、それがそっくりそのまま娘への思いとなりました!
そして一年後、二人目の娘を与えられました。ベッドの周りに、たくさんの天使が、ある者は角笛、ある者はタンバリン、琴、鈴などを持ってすばらしいファンファーレを奏でながら現れたのです。「アッ、生まれるんだ!」 オギャー‥‥。
このことを思い出す度に、一人の人の誕生を、どんなに神さまは喜び、祝福して下さっているか、それは環境や状況とは関係なく、天でも地でも天使達がファンファーレを奏で、踊り喜ぶほどなのだ、何と神さまは人間を愛しておられるのだろうと、感動がよみがえります。
私のいやしはまだまだ続いています。玉ねぎの皮が一枚一枚むけるように、主の前に私がすっかりむけきってしまうまで。この愛だけで良い! この愛の中で喜び、賛美し続けていたいと思うのです。
1993年8月
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