聖書に「教え」ということばがあります。なのになぜ子羊では、「教えは要らない」などいう発言があるのか、と問われました。
パリサイ人や律法学者は聖書の教えを強調していました。イエス様御自身も、みことばを教えられた。しかし、両者の間には、歴然たる違いがありました。イエス様の話を聞いた者たちは、「この人の教えには、権威がある。今までの先生達の教えとはちがうぞ」と驚嘆しました。人々が権威を感じたというのは、イエス様の教えに神の臨在(リアリティ)を感じたからでしょう。イエス様の話は、学者や偉い先生の説かれる知的な講義とは違う。分かりやすいことばでありながら、ものの本質を指し、かついのちを伝達する。聞く者は、知性をのりこえ、霊が目覚め、魂が歓喜する。そして、身体までいやしを受ける。イエス様の教えとは、いのちの流れそのもの。
私は、そのような「教え」を信じています。教えのことばから、イエス様御自身が現れる。そのような教えには、教える人の側に、「私が教えてあげよう」という押しつけがましい態度はないのです。
人が教えの必要を強調するとき、「私の理解している聖書の教え」であり、だから、神のリアリティよりも、教える先生の偉さが残る。私は、そんな教えは要らない、いや害になると思っています。主よ、主よと教えながら、その実、神と人の間に立ちふさがる先生方のなんと多いことか。プロテスタントの信仰は、ルターの「万民祭司主義」、すなわち、個々人は教会を介せず神に直接つながることができるということに基づいているのに、そのプロテスタントの諸先生が、「いや、教会の教えを無視しては危険だ。個々人が聖書を勝手に読むなんて異端だ」とまで言います。自分たちの言っていることが、プロテスタント信仰の自殺行為とも気がつかずに。
「聖書を教える」というとき、誰でも必然的に、「私の理解している聖書の教え」になるのです。私もフィラデルフィア時代、「聖書は何を教えているか」という小冊子を作ってみました。聖書の主要な教えというのを、総括的にまとめあげたもので、今読み返しても、よくできていると思っています。独習スタイルをとっていますが、これ一冊をまじめに勉強するなら、神学校で勉強するよりも深い聖書の学びができるはずです。当時、私はいろいろな教会教派が用いている聖書マニュアルを読み漁り、近所の神学校の図書館でそのたぐいの文献を調べたのですが、やればやるほど不満がつのりました。皆、自分の教派や教会の観点からの聖書の解釈であり、キリストのイメージが透明に伝わってこないのです。ついに、自分が一冊まとめたほうがいいという結論に達しました。しかし、できあがって、われながらよくできていると思ったのですが、よくできている故に、これは危険なものになるぞと思い、序に、「これをマニュアルとするな」というようなことを書き足しました。というのは、いかによくできていても、所詮、「ピーターの理解している聖書の教え」なのです。これも又、ピーターという一人間が見たイエス像であり、ピーターの聖書観なのです。
そのような人間の理解としての教えがまったく意味がないというのではありません。この場合、聖書を見る人の信仰の目がつねに問われているということさえ知っているなら。その人の信仰の目が透明であればあるほど、教えの内容、すなわちキリストも透明に伝えられるでしょう。その人の目が教会の伝統や知性の驕りで曇っているなら、その教えからは曇ったキリストしか伝わりません。プロテスタントには様々な諸教派があり、各々自分の解釈を正統なものとし会衆に押しつけよう(教えよう)とします。社会悪との戦いを標榜するリベラルな教会の聖書の教えと、福音教会の聖書の教えは、これが同じキリスト教かといぶかるくらい異なり、まあ互いに犬猿の仲ですね。ところが聖書の教えについていちばんやかましい福音主義の教会間において、聖霊・いやし・きよめ・再臨・洗礼・教会制度、いや救いそのものの理解についても議論が続出して統一できない状態です。統一などできるはずがありません。聖書の教えというのは、所詮、各々理解した聖書解釈に過ぎないのですから。そんなものが人を救うのではない。人を救うのは、キリスト様御自身です。
聖書の教えは、教える人の透明度により、価値がある時もあれば、まったく価値がない、いや害になる時もあると言うのです。ペンテコステの後、何千人の信者は「使徒の教えを守り」(行伝 2:42)とありますが、あなたはペテロやヨハネがいわゆる聖書講義をしたと思いますか。あの時は、聖霊が濃厚な時ではありました。使徒たちは、知的な聖書の教えではなく、キリストに触れた感動を、激しく流れる聖霊を、みことばに添って証したのでしょう。透明な彼らの信仰を通して、キリスト様が如実に現れたにちがいありません。キリスト教会は後世、聖霊のダイナミズムを失ってから、信仰を教条化し、「使徒信条」という名の「使徒の教え」をつくり上げましたが、聖書にはそのような教条は記されていません。私にとって「使徒の教え」とは、使徒を通して現れたキリストのリアリティであります。
キリストのリアリティとは、各々がキリストを霊とまことをもって拝するとき、どの人にも直接分かる神の愛です。それは、信仰、そうキリストを信じる信仰によってしか伝わってこない神のいのちです。途中に、人間や教会の媒介物はいっさい要らない。
あなたがたのうちには、キリストからいただいた油がとどまっているので、だれにも教えてもらう必要はない。この油が、すべてのことをあなたがたに教える。(Tヨハネ
2:27)
聖書を教える、その究極は、聖霊の「油がとどまっている」かどうかということです。聖霊の油があるなら、教えを聞いて、人はキリストに目覚めて行く。キリストの信仰に向かう。教会や偉い先生の理解している聖書解釈など、どうでもいいのです。聖書のみことばがみことばであるというのは、聖書の教えが教えであるというのは、ひとえに聖霊の「油がとどまっているか」、他のことばで言うなら、十字架と復活のキリストがリアルに迫ってくるかどうかということに、かかっているのです。
1997年12月31日
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