十字架を信じ、十字架を知るほどに、自分が内から自由にされてゆくことが分かります。相変わらず私には問題があり、痛みもある。しかし、もはやそれらの問題や痛みが、心底からは私を揺さぶり私を殺してしまわないことを知るのです。むしろ、その問題や痛みが、十字架によって生かされることが信じられるようになります。
復活のいのち、とはすごい力です。死に左右されないのです。
わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。(ヨハネ11:25-26)
あなたはこれを信じるか。イエスさまが一人一人に問われているのです。それは、信じるだけでよい、ということです。
私は、オウムの事件を毎日のようにテレビで見ながら、「権力」について考えていました。私は、「白いハト」のあと、本屋で買える霊的な本は買いあさりましたから、オウムの創刊号から読んでいました。教祖の教えは決して異常ではなく、むしろ私を引きつけるものでした。ただ、私には「これではない」と思わせる力があまりに強かったので、本も2、3冊でやめてしまったのですが、印象としては、愛の道を説いているように感じられました。
もともとのスタートはそうだったと思うのです。ところが、十字架がないから、ちょっと外れ出すと、教祖の個人的な思想や願望が大きく働くようになったのでしょう。それも、信徒を絶対服従させるという「権力」を持つに及んで、拍車がかかったのだと思うのです。狂気は進めるしかないからです。十字架は肉に走るのを止める力でもありますから、十字架がないというのは、狂気が暴走することを助長するようなものなのです。
私は教師でしたから、教師の権力というものも見てきました。愛をもって生徒たちを教育するのが教師ですが、やはり与えられた権力や、まわりが作り上げる権力によって、もともと目的の教育より、教育する者の権力が守られるようにと状況が動かされて行くことがあるのを見ました。プライドとか権威が優先することがあるのです。権力とは言わないかもしれませんが、親の権力というのもあります。あたかも子供は自分の所有物、自分の権力の及ぶところにあると思ってふるわれる権限のことです。
私は昔から考えていたのです。
自己主張をしない権力ってないのかしら。自分のことばかり考えて自分だけを肥え太らせ、自分だけがわがままに生きようとする権力ではなく、又、無条件に服従を強いる権力ではなく、むしろ他者を生かす権力がないものかしら。
人を生かすことによって自分も生きる、そんな力がないものかと探していました。社会主義、共産主義の幻はすでに打ち砕かれていました。新左翼のモノの見方は好きでしたが、権力を握ると他のものと何ら変わりがないように見えました。文化大革命には斬新なものを感じていましたが、あの運動をしつづけることが、またひとつのカタチとなって行くのを見てしまいました。権力を持つと、権力によって、もともとの理念が崩されて行く。権力とは所詮、力の論理に動かされ、生きるもの。新しい権力など求める方がおかしいのだという結論を、私はよく分かりもしないままに持っていたのです。
ですから、イエス・キリストに出会った時、そして、神の力を知った時、私は驚きもし、感動もしたのです。
ピーター先生は、ガン細胞のたとえを話されていますが、自己中心のガン細胞は他の細胞を食べ尽くし、ついに自分の勝利を宣言する時は、同時に自分の死の時。自己中心の行き着くところは、破滅でしかないのです。
人間の肉の力の行き着く先は死。しかし、キリストの力の行き着く先は、いのち。十字架に肉はつけられ、復活のいのちがそこから生まれる。キリストの力を権力とは言いませんが、しかし、もし持とうとされたら、イエスさまほど権力を手に入れることが可能な方はありませんでした。チョイチョイとわざを使って、人々の目の前で身体を浮かしたり、時の王を倒してしまえば簡単でした。御自分が王となって、権力を握ることは簡単でした。
しかし、もしそれをしておられたら、人は力の現われだけを求めたでしょうね。権力に服して、愛を見失ったでしょうね。そして、十字架も復活もいらなくなります。
キリストの権力とは、もしそう呼ぶとしたら、権威であり、そして愛なの
だと思うのです。
キリストの「権力」だけが自分を肥大させることをせず、むしろ自分は死ぬことによって、他者を生かす力だと思うのです。愛が愛であり得るのは、十字架があるからです。
もう一度言わせて下さいね。十字架がなければ愛は愛であり得ないと思う
のです。すぐに変質することができます。
キリストの愛、十字架の愛という「権力」がこの地を支配するなら、どんなに平和が、そして自由がもたらされることでしょうね。
オウムの狂気も、神などいらぬという自我の主張も、この愛の中で溶かされてゆくだろうと信じているのです。
なぜキリストだけなのか。そこには十字架があるから。そして、キリストは愛だから。
わたしたちは、御子にあって、神の豊かな恵みのゆえに、その血によるあがない、すなわち、罪過のゆるしを受けたのである。神はその恵みをさらに増し加えて、あらゆる知恵と悟りとをわたしたちに賜わり、御旨の奥義を、自らあらかじめ定められた計画に従って、わたしたちに示して下さったのである。それは、時の満ちるに及んで実現されるご計画にほかならない。それによって、神は天にあるもの地にあるものを、ことごとく、キリストにあって一つに帰せしめようとされたのである。わたしたちは、御子にあって、神の豊かな恵みのゆえに、その血によるあがない、すなわち、罪過のゆるしを受けたのである。神は‥‥御旨の奥義を‥‥わたしたちに示して下さったのである。それは、時の満ちるに及んで実現されるご計画にほかならない。それによって、神は天にあるもの地にあるものを、ことごとく、キリストにあって一つに帰せしめようとされたのである。(エペソ1:7-10)
1995年5月7日
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