もうひとつの目     
美津子
 ひとつあらためて書いておきたいことがあります。なぜキリストなのか、ということです。最近、集会に出かけると、一度はこの質問を受けることが多いのです。
 人とは、神を知ることができる存在であり、神を求めるように造られていると信じています。たとえば宇宙のことを考えたり、この一つの地球という星のことを思う時、あるいはたった一輪の花を見る時、人間の力以上のものの存在を感じるように造られていると思います。
 そして、「私は神と呼ぶか、何と呼ぶか知りませんが、人間を造り、この全宇宙を支配する大霊の存在は信じています」という方は多いのです。又、「私は昔から、神さまにお祈りしてきました」と神なるものを信じてこられた方も多いのです。
 しかし、では、その神なるものの存在を信じながら、それがひとつの名をもった神であると言われると、その多くの人は抵抗してしまわれるのです。
 私もそうでした。神を一つのエネルギーととらえるのはとても簡単なことでした。しかし、それがキリストである、キリスト以外の神ではない、ということを信じるのは、並大抵のことではできないのです。人間の知性や意志力では信じることができないものです。
 人間の自我が、させまいと働くからだと思うのです。それまで自分が考えてきたこと、自分が正しいと信じてきた考え方、自分を自分らしく成長させてきたと思っている自分の知性を、固くもてばもつほど、キリストを信じるのに抵抗感が働いてしまいます。
 「神なるものは信じますが、キリストは信じません」。この言葉は、神なるものを求めている人の、正直な思いでありながら、キリストを見まいとする、自我の最も強い主張であると思えるのです。
 自我の主張をする限り、キリストを信じることができない。自我のままに生きようとする限り、キリストを知ることはできない。こんな自分を正しいと言ってくれる神を求めるからです。自分の自我の主張をそのままに受け入れてくれる神は、ひとつの名を持っていては困るのです。特定のひとつの神を信じるとなると、自分の思い通りにならない。人とは自我がそこなわれてほしくない、と願うものだからです。
 では、一歩譲って、ひとつの神を信じるとしても、なせキリストなのか、仏教も、イスラム教もいいじゃないか。オウムだって信じる者には絶対の神となるではないか、と自我は叫ぶのです。
 なぜキリストなのか。私なら答えます。十字架はキリストにしかならないから。そして、ここから先は、知性を満足させ、自我をよろこばせる答えがないのです。納得しなければ信じられない自我に立って、今までのような生き方をつづけたいか、あるいは納得できないけれどキリストを信じるか。キリストとは愛のことです。この愛がどんな愛かは分からない、しかし賭けてみるか、ということなのです。
 では他のものに賭けてみるのもいいではないか、という次の疑問もわくでしょう。オウムに賭けるとヘッドギアーがつけられ、一人の教祖の声を一千時間聞きつづけていることになるかもしれない。それもただ一人の人を絶対視し、神として、たてまつるために。お金で成績も上がり、目標が目に見えるから分かり易いことでしょう。
 キリストの十字架は、目には見えず、手でさわれもしない。どこまで信じても信仰の成績表はもらえません。一千時間祈ることを求められもしない代わりに、一千時間祈ったら信仰が深まる、というわけでもないのです。聖書を学び、深い知識を身につけたからといって、信仰者としての格が上がるわけでもなく、キリストの愛が多く与えられるわけではありません。たくさんのお金を寄付したからといって、よしと認められるわけでもありません。信じていることをどう現わしたらいいのですか、と問われても答えはないのです。答えは信仰だからです。
 十字架がない信仰は、どこかでいつかこの世のものと結びつき、癒着すると私は思っています。それは神から人の目をそらせる、ということです。十字架がないから、一人の人間を神としてあがめ、言いなりになる。人を見る者とされる。人しか見ない者とされる。十字架がないから、この世で必要とされる金力と権カを握ろうとしてしまう。
 十字架がないから、自我中心の自分でよいとしてしまう。
 十字架とは自分とこの世が切れていること、自分と自分の自我も切れていること。十字架を知るほどに切れていきます。
 神なるものを信じたいと願う自分と、それを妨げようとする自我との間に十字架が立つ。真理を求める私と、真理から目をそらせようとする私の自我。十字架は神を求めさせまい、真理を見させまいとする力を打ち砕くもの。しかも、努カも修行もなしに砕くものです。
 オウムはまず一千時間のテープで自我を殺させ、クスリで殺させ、絶対者なる人を拝させるようにします。私は、これは洗脳だと思います。
 しかし、キリストは愛。愛は愛に向かわしめ、人を解き放ち続ける。武道も悟りの世界に人を導くといわれています。私はその悟りの世界を知りませんから、エラソウなことは言えないのですが、無我の世界であるとしたら、キリストの愛の世界とは違うかも知れないと思うのです。キリストの世界は無ではなく、愛であると信じるからです。解脱者であるオウムのリーダーは、毒ガスを作る。十字架がないところの、行き着く先を見るような気がするのです。
 キリストを信じることは、キリストの十字架と復活の力が、信じる者を支配するということです。もはや自我に生きないで、私がキリストのいのちに生かされる。修業はいらない。人は、信仰によって正しいとされるのです。それは、十字架なしにはあり得ない、と私は信じるのです。

  1995年5月7日 
 
 
(c)Kohitsuji no Mure Christ Curch