今年も、桜の花と共に出会いと別れの季節がめぐってきました。花見客も随分減って、ようやく落ち着きを取り戻した夙川公園で、花吹雪が舞う頃、息子が通う小学校でも、教職員の離任式がありました。
息子がこちらに転校してから2年間、障害児学級で担任をして下さった先生も、他校へ移られることになりました。彼女が離任式の挨拶の中で、児童たちに向かってこんな話をして下さいました。
「‥‥もうひとつお話をします。先生はこの小学校に9年間もいましたが、先生が来た時に、もうすでにいた生き物がいます。何だかわかりますか? それは、あの大きなにわとりです。もともと運動公園に捨てられていたのを、ある児童が拾ってきて、学校で飼うことになったそうです。ところが、ひどい目にあって捨てられたためか、人に対する不信感があり、ひどく凶暴で、すぐにくちばしで攻撃してきます。先生方も子供たちも、えさやりや掃除に苦労していました。みな恐がり、ついには、必要な世話をする以外は誰も近づかなくなってしまいました。ところが、そんなにわとりが、ある人によって変わってしまいました。その人は、J君です。
J君が転校してきてから、ある日、にわとり小屋を一緒に見に行った時、先生がちょっと心配しながら扉の鍵を開けると、J君は少しも恐がらずに中に入り、ためらうことなく、あの凶暴な大きなにわとりをしっかりと抱きしめたので、先生はとっても驚きました。その後もJ君は、毎日のようににわとり小屋に通い続けました。そのうちこのにわとりは、J君に抱っこされて、羽をひっぱられても、とさかをひっぱられても、くちばしをさわられても、なされるがまま、じっとおとなしくしているようになり、やがて、誰が近づいても攻撃することがなくなったのです。
皆さんの中には、乱暴したり、いじめたりする人はいませんか? たとえ、言葉を使わなくても、優しい気持ちで接していると、それが通じて相手も優しくなるんですね。先生は、この学校にいて、クラスでこんなすてきなお友だちと出会うことができて、ほんとによかったと思います‥‥」
全校生徒を前にした離任の挨拶で、個人名を出されるのは異例のことなので驚きましたが、自己アピールしにくい息子への理解が少しでも広がるようにと、最後まで機会を生かして下さった先生の愛情を有難いと思いました。そして、こんなふうに子どもを見つめて、感じ取って、大事に尊重してくれる先生が、息子にかかわって下さったことに感謝しました。
でも、それだけではありません。息子個人のエピソードを越えた、静かな感動が体育館に広がっていくのを感じました。挨拶のために来ていた母親たちが、みな涙しているのが見えました。私も、わが子のことを越えて、その場にひたひたと満ちていくイエスさまの愛に圧倒されて、涙が止まらなくなりました。
ほんとうは人のあたたかい愛情を受けたいのに、攻撃することしかできなくなるほど傷ついてしまったにわとり。にぎやかな小学校の校庭の片隅で、人を寄せ付けず、人から恐がられ、ついには忘れ去られたようなにわとりの寂しさ、心の痛みが、子どもたちにも、大人たちにも伝わっていったようでした。あの場にいた誰もが、どこかで共感する部分があったのだと思います。誰もが傷ついたことがある。傷つきすぎて、殻に閉じこもった瞬間がある。好きこのんで乱暴したり攻撃的になるわけではない。嫌われて、ひとりぼっちになるのが好きなわけじゃない。「もう誰も信じるもんか」と言いながら、信じられる誰かを待っている。寂しいねと共感し、つらかったねと慰め、大丈夫だよと励まし続けてくれる人を待っている。もう一度、殻を破って外へ踏み出す勇気が持てるまで、あたたかい愛情をシャワーのように注ぎ続けてくれる人を待っている。
ああ、7年間も孤独の中で、遠い目をして待っていたにわとり。7年は長いですよね。息子は、にわとりの寂しさ、悲しみをキャッチして、本当は愛情を求めている心の叫びをごく自然に受け止めたのでしょうか。外側の姿に惑わされて恐れることなく、大胆に近づいて、いきなり胸に抱きしめてしまった。そして、ささくれだった心を少しずつときほぐし、信頼を回復し、にわとりがもう一度人間との関係を持ち始めるための勇気を与えた。これこそ、いやしでなくてなんだろうと思いました。
あの頃、息子は転校したばかりで、新しいクラスへの適応が大変で、決して口には出さない寂しい思いをにわとりに受け止めてもらって、息子もまたいやされていたのです。息子はしんどくなると、にわとりに会いに行くと先生から聞いて、私もたまに小屋に行って、「息子がお世話になってます」と挨拶していましたが、そんないきさつがあったとは‥‥。今では、鳥インフルエンザの心配も何のその、以前の凶暴さなど知るよしもない児童たちが、頻繁に小屋を訪れ、えさをやったり、楽しく遊ぶようになっています。
その日の下校時、見知らぬ2年生の男の子が、声をかけてくれました。「今日、先生がJ君のこと話してました。ぼく、感動して泣きそうになりました。さよなら」 私は、主が働いておられるのを実感しました。
昨年度末の懇談会で、在籍していた普通学級の担任から、「このクラスの子はみんな、ほんとに優しい子に成長しました。それはJ君の存在があったからです。J君からたくさんの優しさをもらい、ひとりひとりが優しくなり、この子たちは恵まれてるなと思いました」と言ってもらいました。なかなか歯車が合わずに、息子に手こずっていた障害児学級のもうひとりの担任も、息子の紹介文に、「とても優しく、困っている人を見かけると、そっとそばによって一緒に悲しんでくれます。近くにいてくれるだけで、あたたかい気持ちになります」と書いてくれました。
確かに、主が、私たちをこの地に召して下さった。そして、この世の価値基準では決して有能な者とは呼ばれない息子を通して、これほど豊かに主ご自身の愛を現して下さっている。こんなことを思って、とても励まされました。
あれから、にわとりのことを考えては、イエス様の究極の愛が新たに迫ってきて、胸が震える思いです。迷いの多い最近の日々でしたが、もう一度原点に引き戻されました。あまりに傷ついて、誰かが近づくものなら、針ねずみのように全身の針を逆立てて抵抗しようとする人々。主は、たとえご自身がその針に突き刺されて血が流れても、ひるむことなく、しっかりと抱きしめて下さる。悲しみも怒りも、絶望も孤独も、後悔も、すべてを包んで、死さえも飲み込んで勝利される十字架の愛。何より強く、美しく、決してあきらめない愛。ああ、この愛が流れ出す、息子の内から、私の内から、主を信じる者すべての内から。
人を寄せ付けず、孤独の中で救いを待ち続けている魂たち。一羽のにわとりにさえ、こんなあわれみをかけられる主は、すべての人を必ず助け出して、この愛の中に抱き込んで下さるのだと思いました。
キリストの愛にふれられて、解き放たれたにわとりの喜びが、静かにしみ渡って、学校全体を覆っていったように感じた出来事でした。
2007年5月5日
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