つい先日のこと、スタッフ会のためにグレース(子羊の群れの事務局があったマンション)に向かっている時でした。桜の木にはまだ赤い葉が残っていて、他の木々の黄色い葉や、松の緑と混じり合って、夙川沿いの道はとても美しいものでした。
こんなきれいな景色こんな気持ちのよい気候で、アメリカなら人はこういう天気をクリスピィと呼んでいたな、などと思いながら信号待ちをしていました。
そんな風景の中にハトの一群が入って来ました。夙川沿いの道にはハトがいっぱいいるのです。かなりの数のハトたちが、夙川の上を、あちらへ行ったり、こっちへ来たりと気持よさそうに飛び回っていたのです。
ハトたちの群れでもはぐれ者はいるな、みんなと同じように飛びたくないのもいるんだな、などと飛んでいるハトたちを見ながら思ったりしていました。
ただ何気なく見ていたのてすが、私はこのハトたちの群れには白いハトがいない、ということに気がついていました。自然と目は白っぽいハトを追ってしまっているのです。
ついこの間まで、夙川には白いハトがいたのです。純白のハト。羽のどこにも一点の斑点すらない、真っ白いハトがいたのです。散歩に出たり、ちょっと外出する時など、白いハトを見かけてはよろこんでいた私でした。そういえば最近見かけなくなっていたのです。
目の前のハトたちは、みんなふつうの灰色がかった黒っぽいハトたちです。中には白い羽の方が多くて白っぽいものも混じっていますが、羽のどこかに黒っぽい模様がついていて、純白なハトは一羽もいないのです。
私は「朱に染まれば赤くなる」などということわざを思い浮かべ、白いハトも灰色になって消えてしまったのだと思いました。
やっぱり白いハトが白いままに残れるというのは並大抵のことではないんだ、灰色のハトの方が圧倒的に多いのだから、白いハトに灰色が混じる方が自然なんだ。人間もおんなじ。すぐに肉に同化してしまう。肉の力は強いもの。私は目の前に見えていることに自分勝手な解釈をつけてしまいました。人ってついつい解釈をつけたがるのでしょうか。
するとふと、それこそふとなのですが、誰かが私のすぐそばに来て声をかけているような気がしたのです。
お前の目には白く見えないのか
わたしの目にはみんな白いのだよ
イエスさまが見られる、というのはそういうことなのかとびっくりしてしまいました。しかし、目の前のハトは白くはないのです。全部、灰色か黒っぽい色をしています。イエスさまにもそれは見えていると思うのです。しかしイエスさまには、もうひとつの目がおありなのでしょう。そして、このもうひとつの目の方が、イエスさまには真実なのです。
私は、朱に染まれば赤くなる、なんてこの世の目でモノを見てしまいます。白いことを保つなんて、ちょっとやそっとでは難しいと考えてしまいます。これがさらに進むと、だから白くありつづけるために何とかがんばらなくちゃ、となってしまいます。せっかく主が白くして下さったのだから灰色にしては申し訳ない、一心に祈りましょう。もっと聖書を読みましょう。もっと主のために働きましょう。人の目で見ると、どうしても行いへと進んでしまいます。人の目は律法の目なのです。
しかし、イエスさまの目は愛の目。神の目とは、愛の目、霊の目なのですね。「白くありつづけなさい」と言われるより、「わたしの目にはお前は白い」と言われたら、どんなにうれしいでしょう。
主は、人にも神の目をすでに与えて下さっている、と思うのです。信仰の目です。十字架が完成しているから、肉をもつ人間にも神の目が与えられていると思うのです。十字架を無にしないとは、信仰の目で見る、ということだと思います。それも、信仰に名を借りた、自分に都合のよい、人の信仰の目で見ることではありません。神が願われる神の信仰の目で見ることです。 聖霊を受け、神の子とされながら、いつも肉にほんろうされている私を、白いと見て下さる主。いいかげんなことを知っておられながら、働き人としておいて下さっている主。どうしようもない人間なのに、愛しているよと、限りない愛で愛しつづけて下さる主。
自分に注がれているキリストの目がある、この私にあたたかいまなざしを向けつづけて下さっている主の目がある。自分はいつもそのあたたかい目を向けられていながら、人を自分の目で見てしまう。自分の目で見、自分のモノサシで測ることが裁くということであることにも気がついていない。
人をさばくな。自分がさばかれないためである。 (マタイ7:1)
自分の判断はもういらない、主の愛の中におかれているのに、再び裁きの場に自分を置くことはない。信仰による決断は求められつづけるけれども、自分の目で見て判断しようとすることはキリストの目を忘れてしまうこと。キリストの十字架を遠ざけること。
あなたがたは肉によって人をさばくが、わたしはだれもさばかない。(ヨハネ8:15)
と言われるイエスさまです。このイエスさまの目が私にも与えられている。主の目で見られている私が主の目で見ようとすること、それが信仰であり、十字架を無にしないことであると思うのです。
キリストの苦しみをなお足りないとしてしまっている私が、主の目で見ようと決断することによって―信仰の決断によって―十字架を無にしない者ヘと変えられてゆく、と思うのです。
イエスさまにとってもうひとつの目は、ただひとつの目。この目で見られるよろこびを知る者は、この目で見ることをよろこびとする者。この目ですべてを見たいものですね。そして、イエスさまの目で見られているから、私たちは賛美そのものの存在とされているのですね。この目で見るなら賛美があふれますね。
1994年12月8日 研修セミナーの日に
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