(一)
私は1928年、ブラジルで生まれました。六人兄妹の4番目でした。父はブラジルでは、ピンガというお酒の工場を持ち、そこで相当の財産を築き上げた様です。兄達が学校へ行く年頃になり、父は教育は日本でしなければいけないと思い、引揚げを決心して帰国の途についたと聞きました。私が6歳の時です。父は東京か神戸に住もうと考えていた様ですが、おじいちゃん、つまり父の父が神戸まで迎えに来て説得され、郷里の沖縄へ帰ったということです。
私たち家族が沖縄に帰って来て10年後に大東亜戦争(第二次世界大戦)が始まり、沖縄にも大勢の軍隊が来てあちこちに陣地が作り上げられていきました。そして第1回目の空襲で那覇市は灰の町と化し、我が家も何一つ残す事なく丸焼けとなりました。ペシャンコになった焼け跡に、母が大事にしていたシンガーミシンが頭だけのぞかせていたのが印象的でした。当時はとても貴重なミシンでしたから、母はそれだけを取り出し、台をつけてもらい立派に使える様にして、近くの陣地にいた野砲隊の兵隊さん達の繕い物の奉仕をしておりました。ところが沖縄の島が米軍の軍艦に包囲された時、野砲隊は一発も発砲出来ませんでした。敵は電波探知機という、当時日本にはなかった凄いものを持っていて、一発打てば即その場所を確認でき、集中攻撃をしてくるからです。もう手も足も出せなくなって撤退する事になり、野砲隊は大変世話になった私の両親にだけ手榴弾を二発渡し、「もう日本は駄目だから、万一の時にはこれで自決せよ」と言った様です。そして本当にその様になってしまいました。後からその事を知って、その手榴弾さえなければ両親は生きていたはずなのに、と口惜しくて姉と二人、泣きくずれました。
その前には、弟が学童疎開で乗っていた船が魚雷にやられ沈没して、海の藻屑と消えてしまったのです。
私と姉は当時勤めていた郵便局と銀行を辞め、ひとつの部隊の衛生班に組み込まれ、戦争の間だけ両親と別れて、安全だと思われていた北部にある野戦病院に向かいました(どこにあるのか、たどりつくまで何日かかるのかも分かりませんでした)。昼間は空襲が烈しく、夜しか歩けず暗闇の中をただ歩き続けました。でも夜は夜で艦砲射撃なるものがありました。真暗闇の中にポーンと照明弾が打ち上げられ、その玉が二つに分かれ、四つになり、八つになりと数を増やしていくごとに、まわりが真昼の様に明るくなり、頭上で砲弾が炸裂するのでした。だから恐くて皆逃げまどい、その時親子が散り散りになり、泣き叫ぶ声が絶え間なく続いていました。さながら生き地獄でした。時々、特攻隊の体当たりで、米軍の軍艦が火柱を上げるのを見て、手を合わせたのを覚えております。
そのうち米軍が上陸して来た事を知り、飲まず食わずで逃げまどいました。歩き続けて着いたところは北部の小さい部落でした。目的の野戦病院にはたどりつけず、部落も空っぽで、皆、山へ避難した様でした。沖縄戦は中部と南部に集中していて、北部は案外静かなのに驚きました。そこには陣地がなく、深い山々があるだけでした。山に登っても住む小屋もつくれず、姉と二人、どうしてよいのか分からず、ただ座っていました。そこへ通りかかったおじさんが、「うちの避難小屋に来なさい」と親切にしてくれました。親子四人の家族でしたが、私たち二人の寝る場所はちゃんと床がつくられており、そこで命拾いをしました。彼らには大変お世話になりました。でも食料調達は厳しく、私は餓死寸前のところでした。そして終戦となりました。
(二)
沖縄は戦後すぐは米軍の統治下にあり、本島はおろか隣の部落へ行く事すら禁止されていました。
戦争は恐ろしい。人の命も野山も木もなぎ倒され、全てを奪い、人を不幸にする以外何もないのです。日本は神国だと信じさせられ、天照大神の子孫だと言って大麻(天照大神がまつられているお社)を神棚に飾り、朝に夕に二礼二拍手一礼をもって拝んでおりましたが、敗戦によって、日本は頽廃の苦しみを味わいました。もう神も仏もあるもんかと思わされる状態でした。
そんな終戦直後の厳しい状況下で、米軍からタイピスト養成の依頼があり、三十人位の人が選ばれ、運よく私も英文タイプを習う事が出来ました。何もする事のなかった頃でしたから、生き甲斐を感じて一生懸命学びました。まだ通貨もない頃でしたから給料はありませんでしたが、食事は三度三度米軍が準備してくれ、その点では一般の人に比べれば贅沢なものでした。
沖縄にもようやく政府も出来、役所や銀行も出来ました。戦争前は銀行に勤めていた関係で、仕事に戻る事が出来ました。そして何年か後に結婚しました。
主人の父は東大出で、船会社の社長でした。当時まだ一般の人はアバラ屋に住んでいる頃、私達は桃原御殿と言われる様な家に住んでいました。御殿と言いましても、建築物が手に入らなかった戦後の事、船会社でしたから、ふすまや障子に至るまで色々取り寄せる事が出来て、大きなちゃんとした家屋が出来たという事で、たまたま回りからそういう風に呼ばれていただけの事でした。
長女が生まれる頃、舅は召され、その二年後に姑も又召されました。その姑はクリスチャンでした。その姑の祈りと計らいにより、私はキリストに導かれたのです。
姑が生きていた頃、彼女が行っていた教会と東京の教会との話し合いで、東京から伝道者を呼ぶ事になっていたそうです。実は姑が亡くなってからこの約束が実現したのです。もう五十年以上も前の事です。東京から東洋宣教会福音十字軍の伝道者一行が沖縄に遣わされ、我が家の離れに宿泊する事になりました。
それから各所で天幕伝道(大きなテントを張って行う伝道集会)がくり広げられる様になりました。私は同じ屋敷にいましたから、毎晩の伝道集会には連れられて行く様な感じで(トラックに乗って)ついては行きましたが、私のかたくなな魂は閉ざされたままで、宗教へ引きずり込まれるのは嫌だなと思いながら、毎晩の集会にはお義理でついて行っていました。
ただ一つ不思議な事に、伝道師達の敬虔な祈りの姿には何かうたれるものを感じ、「何なのかはわからないけれど自分にはない何かがある。それが何なのか知りたい」という思いに駆られました。集会の間中ずっと顔を伏せておりましたが、廻りがざわめきはじめたので顔を上げて見ると、席を立って前へ出て行く人がいるのです。訳もわからず私もつられて席を立って、一緒に講壇の上に立ちました。その瞬間でした。
「我は道なり、真理なり、命なり」(ヨハネ 一四・六 文語訳)のみことばが脳天からドンと私の全身を貫いたのです。
「えぇ!? なんだろう?」と思う間もなく全身が震え出し、涙が止めどなく流れ出し、抑える事が出来ませんでした。それが主の臨在に触れられた体験であった事を初めて知りました。
間もなくキリストの十字架の贖いを受け入れ、広い海で受洗致しました。それから長い間、礼拝だけはずうっと守っておりました。既成教会での基本は、十分の一献金(収入の十分の一を献金する)と教会の奉仕が重要でしたから、その事はずうっと守り続けました。でも私の信仰の姿勢が悪かったのか、よろこびは次第に薄れ、イエス・キリスト様は天の遠い聖座にまします方で、近づきがたい神様としか思えなかったのです。私の教会生活は、本当にマンネリ化したものでしたが、それでも養われていた部分は大きかったと思っています。
覚えておられる方もあるかと思いますが、三十年ほど前、沖縄で海洋博が行われました。その頃、私共は東京に住んでおり、主人は運輸省と沖縄の父の会社(本社)との間に入って仕事をしておりました。沖縄の本社はこの時とばかりに大きな客船を造ったり、那覇から客を運ぶ為のあらゆる乗り物の準備を始めていました。現在の様に沖縄が全国に知れ渡っていたら良かったのですが、その頃はまだ本土に復帰したばかりで海洋博のお客は少なく、沖縄戦でひどい目にあった島ぐらいのイメージしかなかったのではと思います。
でも沖縄の本社は皆、海洋博で浮かれていて、主人にしてみたらあまりに無謀な経営状態だったのでしょう。「うちの会社は危ない危ない」といつも歎いておりました。そして主人が心配していたように、会社の思惑がはずれて、義父の始めた船会社が倒産してしまったのです。それから主人の心労と苦悩の日々が続き、とうとう病に倒れて、四十八歳の若さで亡くなりました。
主人が亡くなって八年目位に、クリスチャンの友人に、ある方を紹介されました。その方も奥さんを亡くされていました。
彼は歯の治療をした時、歯から微菌が入って亜急性心内膜になり、救急車で病院に入院して治るまで二ヶ月もかかりました。彼は横浜で有名な洋品店を経営しており、子供達、店員さん達も忙しくてお見舞いに行く事もままならず、結局私が毎日行く様になりました。二ヶ月経って退院が決まり、彼は家へ帰ったのです。
彼は毎年、冬場はハワイに避寒していたのですが、その年の11月に「一緒にハワイに行ってくれませんか」と言われました。驚いてすぐには返事しませんでした。
ハワイにはまだ一度も行った事がないし、病後の彼の扱いも知らず、どうしたものか思案にくれました。その時フッと頭に浮かんだのは、そうだ、ハワイの教会を訪ねてみようという思いでした。いくらか楽な気分になり落ち着いて考えられる様になり、彼は病後だし、休養ということで三ヶ月間、一緒に行くことにしました。
訪ねた教会はマキキ・チャーチというお城で有名な教会でした。本当に大きく立派なお城で、色んな設備も整ったすばらしい教会でした。日系一世や二世の方達が大勢いて、心から歓迎してくれました。親切で優しい気持ちの方々ばかりで、すぐに慣れることができました。
毎年ハワイに行く様になり、結婚なんて考えた事もありませんでしたが、年寄りとはいえ、男女ですから、彼の家族は籍を入れなければ良いという事で、式だけは挙げる事が出来ました。それからビザが取れて、毎年六ヶ月間はハワイに滞在できる事になりました。
その後、彼の友人で市長さんの家族がカナダのバンクーバーに永住を決めて引っ越されたと聞き、お電話をしたら、良い所だから是非いらっしゃいということで、私達は彼らを訪ねました。彼はその地に一目惚れしてしまい、バンクーバーにマンションを買い、夏は暑いからバンクーバー、冬はハワイにしようと、六ヶ月ずつ住む事になりました。一年のうち四月頃だけ、税金の申告で日本に帰る事にして、十二年間位過ごしました。
(三)
バンクーバーにいた時、トロントに並里さん(注・トロントのリーダー)という方がおられ、「ぶどうの木」を取り寄せる事ができ、初めて知るいやしのことなど書かれていたので、喜んで読んでおりました。その一冊の中に美津子さんが主から語られた「語ろう」が載っていました。
語ろう(U)
―いやそう―
いやそう わたしがいやそう
わたしがお前をいやそう
傷ついた子羊たちよ
愛を求め切に祈りなさい
愛は絶えることなく 変わることもない
わたしを愛する信仰によって
主の栄光が現されんがためである
お前の目はどこにあるのか
お前のために備えられた十字架を
静かに見上げなさい
わたしの愛とわたしのいやしが
その十字架にあることをよろこびなさい
お前はわたしの愛の中にいる
いっぺんにこの言葉に引きつけられ、「凄いなあー」と感動してノートに書きとめておりました。「誰それさんにも紹介しよう」と何枚も書きました。
丁度その頃、ハワイの教会で通訳をしていた友人が、「もう疲れてしまって力が抜けて、何もする事ができなくなった」と言って来ました。私は彼女の信仰が危ぶまれる様なものを感じて、すぐに「語ろう」を書いて送りました。後日、彼女曰く、「アリセさんのあの手紙を見て、私は涙が枯れる程、大泣きをしたのよ。あの『語ろう』で、私、やっと立ち直る事が出来たのよ。神の愛にどんなに励まされたか」と感謝されました。
そんな出来事もあり、私はまだ美津子さんにお会いしたことは無かったので、「どんな方かしら、一目見てみたい」と思う様になりました。バンクーバーからハワイに戻って来た時、美津子さんがお嬢さんと二人だけでハワイに来られるらしいと友人から聞きました。友人は「あなたの部屋で集会を開くのなら、来てくれると思うよ」と言ったので、私はもう嬉しくて、「そうして、お願い!」と、美津子さんをお待ちしていました。そして初めてお会い出来ました。集会後一緒にお食事をしました。美津子さんが食事を終えて立ち上がった瞬間、頭のまわりが光に包まれて輝いたのです。それはそれは神々しい美しさでした。本当に一瞬の出来事でした。その時に祈られた内容は何も覚えておりませんが、あの不思議な現象だけは友人達にも話したことを覚えています。
もうその頃から私の心は子羊の群れに向いていました。暫くして今度はマンションの会議室で集会を開き(これも頼まれて)、働き人の鈴木康志さんが来られました。話の内容はとても誠実で、まことの神を知っている人とはこの様な人なんだろうという印象が心に残りました。その頃、私は他の教会と子羊と二又をかけていましたが、そこを出て、子羊の群れに来る事ができました。
それからハワイで子羊の群れの礼拝に出席し、さんび集会もする様になりました。2001年にハワイより日本に戻り、2月20日に横浜中区集会を始めました。
その年の6月28日、彼が召されました。「ご臨終です」と医師に言われた時、家族が見守る中、私は一歩前に出て、主の導きにより、「彼の霊を主にお委ねします」という祈りをしました。その時私は、彼の霊を主にお渡し出来たという平安に満たされました。それから私は、「さあこれから、思う存分主に仕えられる」と思っていました。まずは、ハワイとバンクーバーの家を片づけに行きました。
帰って来て、日曜日の礼拝に行こうと電車に乗る為、階段を上がる途中、私は意識を失い倒れてしまいました。救急車で病院に運ばれ、脳挫傷で脳の手術が行われたのです。後から聞いたところによりますと、初めは「大丈夫、命に別状はない」と言っていた医者が、急に電話で「すぐ来てください。危ない」と、家族を皆集め、半身不随の状態で手術は終ったそうです。
「出血がひどく、意識が戻るかどうかわからない」と言われ、家族の者はお葬式の準備のことなど心配した様です。ところが、奇跡的に命の危機を脱し、一ヶ月余り入院して退院となりました。私はまだその時、手術のことや自分に起こったいろんな事を聞かされておりませんでしたから、退院できて元の自分に帰ったつもりでウキウキしていました。
ところが娘(長女)に沈んだ声で「お医者さんから、『お母さんを一人にしてはいけない。包丁もコンロも使用禁止』と言われているから、東京の貴子(次女)の家に一ヶ月行って欲しい」と言われ、わけもわからずその様にしました。長女夫婦は共働きの為、私に付いていることができないからでした。
その頃丁度、「白いハト」のTからVが出版されたことを知り、すぐに三冊いっぺんに取り寄せました。本が届くとすぐに開いて読み始めました。字も読めるし何が書いてあるかもちゃんと分かったと思っていたのに、五分後には頭の中は真っ白で何も覚えていないのです。娘がなぜ私を「一人にできない」と言ったのかわかりました。
「ああ、私はとうとう廃人になってしまった、廃人になってしまった」と嘆いていた時でした。「覚えられなければノートに書き留めれば」という思いが来たのです。そこで鬱々とした気分のまま、ゆっくりノートに書き始めました。その時、突然心の底から喜びが湧き上がって来たのです。「アレッ、私喜んでいる、喜んでいる」と一人でびっくりして叫んでおりました。その時はまだ何の事かも分からず、この様な事は喜びにつながるのだと思い、「さんびの風」
「ぶどうの木」、週報などを読んでは赤線を引き、ノートに写す事が日課となりました。これはその頃の私の喜びでもあり支えでもありました。何処へも出かけられず、集会もずうっと休んで行けずにいましたから、とうとう神からも見離されてしまったのかと悲しくなっていた時のことでした。
脳にある海馬がやられるとはどういう事なのかも次第に分かって来ました。海馬は短期記憶をつかさどり、それを長期記憶に送る事をするのです。ところが私は大量出血の為、海馬が押されて長期記憶に送れず、その為に記憶がとどまらなかったのです。しかし不思議な事に、指を動かし字を書く事が脳の活性化につながるという事も知らずに、自分で書きとめようとやっていたのです。二年半もそのように続けていた頃、ボォーッとぼんやり座っていた時、アレ(書き写し続けること)は主が示して下さったのだという事がピーンと来て驚きました。突然でした。そしてあの時、心の底から喜びが湧き上がって来たのは、霊の喜びだったということが分かりました。神様って、何と優しいんでしょう。気づかずにやっていたことが全て主の愛の導きであった事を知り、感動しました。
しばらくして外出も出来るようになり、子羊の群れがお茶の水のOCCで礼拝をしている事を知り、喜んで出かけました。その頃はまだ顔見知りの方もありませんでしたが、礼拝に出かけられたことが嬉しく、ずうっとここに来ようと心に決め、平安に包まれて帰りました。
何かの文章で、ピーター先生が、荒野聖研で一人主に向かう時のことを書かれていたのを読み、感動しました。私もやってみたい、やれるだろうか。初めはそう思いました。もう三年も自分から文章を書いたことがなく、ただ書き写すのみでボケーと過ごしておりましたから。その時不思議なことに脳裏に浮かんだのが、私の頭は傷ついたけれども、私の霊は傷ついていないではないかという思いでした。兎に角、短く書くだけでもいいから返送レポートを頂いて学び始めようと決心し、何時もチンプンカンプンな事しか書けませんが、今まで良き学びとなっております。
「イエス・キリストの愛だけで十分である」というピーター先生の言葉、「在ますのは御神とその御神を想う私の思いだけ」と言われた美津子さんの言葉に支えられ、今日まで参りました。
私は、怪我さえしなければ研修を受けてスタッフになれたのにとずっと思っていました。もう今は八十歳近くになり、主のみもとに帰る日を待つばかりの日々でした。でも神様は一番よい時期を選んで下さり、黙示録コンサート期間に、私を主の働き人として地区スタッフ実習に呼んで下さいました。
私は神様が呼んで下さったことに本当に感動しました。感謝です。そして私は黙示録さんびを聞いていただけなのに、いやされ続けていたのです。それで今でも、こうして元気でおられるというのは、いやしでした。こうして私達に新しいいのちを頂き、私も新しいいのちに生かして下さり、「ああ、神様の愛と贖いの愛を、私たちの中に神様が完成させて下さるとはこういうことだったのか」と、自分の中に深く感じられるようになりました。実習の間、エルシャ(事務局の建物)にいるだけで神様の愛を感じましたし、一度も家のこととか、何か不安なことを感じたことがなく、ずっと平安と喜びの内に過ごせたことは最高でした。
新しい時を迎え、新しいいのちに満たされ、自分が変えられました。
これまで心の奥底に何かがひっかかっていて、いつも焦りを感じておりましたが、本部に来たら、そんなしこりが気がついたらなくなっていました。
今も生きて働き給うまことの神との出会いでした。呼んで下さった主に霊とまことをもって、聖なるみ名をほめたたえ、さんびをお捧げ致します。
全き愛に感謝、感謝。
Thank you, LORD.
2007年6月26日
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