キリスト教の中で育てられた者として、キリスト教は大嫌いです。何故かというと、宗教は「教え」で人を束縛してしまうからです。たとえそれが聖書のすすめることであったとしても、「教え」の範疇は文字の世界であり、霊の次元ではありえません。霊で始まったものは、文字としての教えでは完成されるどころか人をがんじがらめの不自由さに閉じ込めてしまいがちです。
私のキリスト教嫌いは父の宗教教育によるところが大きいのです。
私は右目を失明しています。それは私が一歳の時でした。
そのころ父は仏教青年会に入り、浄土真宗の盛んな富山でしたので、「真理」を求めていたようです。南無阿弥陀仏と唱えれば浄土できるという、他力本願ですが、その阿弥陀仏というものが分からなかったと言います。永劫の間修行し、その功徳によって救われるというが、阿弥陀仏が実在したのかどうか見た人もいない。本当に救いはあるのか、父は悩みの中にありました。
そんなある日、町の図書館で「仏教からキリストへ」という寺の跡取り息子が書いた本に出会い、阿弥陀仏というのは実はキリストであると分かったそうです。
そのような時、「諸集会(プリマスブレザレン)」というグループの集会があり、父は一九六〇年の十一月二十五日に主イエスを信じたのでした。そして、まさしくその日、集会の行われていた午後八時に、家では取り返しのつかないことが起こっていました。父が常々危ないと言っていた、柱に掛けてある裁ち鋏を祖母が棒で取ろうとし、鋏が落ちたその瞬間に、その下に一歳の私が歩いていって上を仰いだために、その右目に鋏が突き刺さったのでした。
周りの人々は「邪教を信じるから、先祖のたたりだ」と言い、すぐに信仰を止めるだろうと思ったようです。
しかし、父は違った捉え方をしたのです。
「こんなことが起きるなんて、キリストは本物の神や」と確信を堅くしましたので、私に対する思い入れが激しさを増したようです。確かに、父はいのちに出会っていたのかもしれませんが、私にとっては、かたちとしか受け取れなかったのです。
「最初に生まれた初子はわたしのものである」と聖書が言えば、「主よ、私の息子をお捧げします」と、私に断りもなしに捧げてしまいました。捧げたら捧げたで放っておいてくれればいいものを、手を出し足を出し始めたのです。
父は伝道者から「証しをせー」と言われ、救われた次の日から路傍に立って証しをしたそうです。私の目が治ってからは、私をおんぶして路傍伝道に打ち込み、あるいは集会に出ることが頻繁になり、家を顧みず、母が苦労したようでした。
富山の片田舎で、農繁期であろうが田んぼをすることなく、日曜日に礼拝に行くことを遊んでいるとしか見られない中で、集会に励んで出席したということです。自分で励んでいるのはよいとして、昼であろうが夜であろうが、私はいたるところに連れて行かれました。
それだけで終わりません。幼稚園児の時は、朝聖書物語を読ませられるし、小学生になると、「旧約三章、新約一章を読め」と命じられました。これを続けると一年に一回は聖書を読み終えることになるからです。それも朝六時にたたき起こされるのです。眠い目をこすりながら読むのですが、ついつい寝てしまいます。すると「起きて読んでいるのか」と、声が飛んで来ます。
これだけで終わりません。次に聖書の暗唱と唱和です。詩篇一篇、二十三篇、三十四篇、百三篇、百二十六篇、そしてモーセの十戒。それでも終わりません。お祈りです。もちろん正座をしてします。これで終わればいいのですが、今度は家庭礼拝、三十分。夜も三十分。苦痛でなりません。説教ならぬお説教なのです。お説教ですから聞きたくもありません。もちろん足を崩してはなりません。正座なのです。そのせいで足が長くならなかったのではないかと思うくらいです。
モーセの十戒を暗唱するくらいですから、日曜日は絶対に守るものとして、礼拝に強制的に連れて行かれました。聖日厳守なのです。これは学校の行事があってもなのです。運動会、学園祭しかり。私にとって楽しみをすべて奪われたような気持ちでした。礼拝する者を祝福するといった具合でした。その礼拝も家庭礼拝ではないですけれど、楽しくもない、葬式のような礼拝でした。お決まりの賛美歌を歌いながら、祈りと交互に進んで行きます。子羊の群れと同じ形態のように見えますが、いのちのない形骸化したものでした。
プリマスブレザレン(諸集会)というグループに所属しており、「我のみ正し」、あとは「宗派」と呼んでいました。幼い心で、これが本当に正しいのかという思いがありました。牧師制度はなく、みなが兄弟姉妹と呼び合い、長老が五人ぐらいいたと思います。父もその中の一人でした。祈りは女性にさせず、「黙っておれ」というパウロの言葉を鵜呑みにし、男性中心で女性は頭に被り物をつけておりました。
このような状況で、私の心が平安であろうはずがありません。律法主義で私の心も体もずたずたになっていったように思います。心は情緒不安定。そのためか、体が弱く、よく入院しました。ものを食べても吐くことさえありました。ある時は、四十度の熱が三日間下がらず、白血球がどんどん増えて、白血病かとさえ医者が診断したくらいです。今思うと田舎の医者でヤブだったのかとも思いますが、父の祈りが聞かれたのかも知れません。
その時一つの夢を見ました。赤鬼が私を追っかけてくるのです。「殺してやる」と言いながら迫ってくるのです。私は恐怖のうちに目覚めたのを今も鮮明に覚えています。
父と母もうまく行かず、いつ離婚かという中にいました。私の幼少時代が一番暗かったと思います。学園祭で私の絵を母が見てびっくりしたと後から聞きました。私の描いた絵は真っ黒だったそうです。黒、群青、緑の類いの色のみ。闇を描くことが多かった。心は闇に覆われていました。私は心密かに一つの願いを持ったのです。「絶対にクリスチャンにはならないこと」。
もう一つ什一献金を忘れてはなりませんが、これは神の祝福の管であると、お小遣いをもらっても、いつも十パーセントを取り分けて置きました。父は神の約束として受け取っていたのでしょうが、祝福だからと勧められていたように思います。私にとっては当たり前のこととして身についてしまいました。聖なるものとして取り分ける時、お金の毒から守られるという確信があります。私にとって、この原則からはずれる時、お金(マモン)に仕えるものになってしまうと考えます。
こんな私も、中学三年生の時、一つの言葉が私を捉えました。イエスの十字架上の言葉です。
「父よ彼らをおゆるし下さい。彼らは何をしているかわからずにいるのです」。主が私のために祈っていて下さったことに深く感動しました。主のもとに飛び込み、洗礼を川で、受けました。浸礼しか認めず、寒い中、十一月に、それも川で世に対して死んだものであることの宣言として受けたのでした。
このころから、父は周りの長老から嫌われ始めたようです。自分の信仰を貫くものですから、煙たがられ、ついに、私が高校生の時に除名されました。 集会を離れた父は、信仰生活がいかに使徒行伝とかけ離れているかと思い始め、チョーヨンギ先生を知り、韓国に渡りたいと思いましたが、日本の三日月に弟子がいることを知って、そこに行くことになりました。そこは断食祈祷院でした。「お前も来い」と言われ、ついて行くと、訳の分からないことばで祈るところでした。生まれて初めて、異言に出会いました。面食らってしまって、気違いの集団に見えました。早く帰りたいと思いましたが、ひかれるものを感じ、それなりの解放を得たように思います。
ですが、今度はすべてを断食祈祷に託すようになって、今考えてもきつい信仰生活にはまり込んだという感じでした。今度は、一ヶ月の十分の一の三日間を断食に当てるようになりました。断食信仰というのでしょうか、すべてが断食で解決できる、食を断ち、祈りに専念することで物事がうまくいくはずだ、という思いしかなかったのです。
しかし、そうではないことは、最初の子供を失うことにより分かり、神への怒りが込み上げました。主の前に熱心に仕えて来たのに、こんなはずではない。悪くなっていく様を見つつ、どこかで治るはずだ、信じるならいやされるんだという片寄った自分の願いしかなかったのです。
見事に期待を裏切られた時、すべてに嫌気がさし、東京に出て来たのでした。私の「信仰の彷徨」が始まったのです。私の心が求めているものを探しに。
でも、自分が何を求めているかは知らなかったのですが、本物に出会いたいという思いがありました。
東京で有名な牧師の講演会や、あるいは教会に行ったのですが、お金と名声のからんだ醜さばかりが目につきました。
どこにも、これだというものを見い出せなかった中、二番目の子が生まれました。生まれた子供はアトピーで、卵、ミルク、大豆がだめということでした。いやしの伝道者にも祈ってもらってもだめという中、主がキリスト教ではなく、ご自身の愛に出会わせたいと願っていて下さったのだと今は思えるのです。
主は不思議な出会いを用意しておられたのです。
九十二年五月頃、一人の知人を通して、ピーター先生と美津子さんのことを聞きました。「キャサリン・クールマンのような方が日本におられるんですよ」。私はビックリしました。後日、ピーター先生のテープとリトリートの案内が送られてきました。私は「金額が高い、キリスト教の相場はこれぐらいだ、治らなかったら無駄になる」と家内に言ったものです。
しかし、家内はこのリトリートに賭けたのです。
二日目のいやしの時、美津子さんが話された後、「肝臓の悪い方がおられます。最初に祈りたいから出てきて下さい」と言われたのです。家内は「私たちじゃない?」と腕をつついたのですが、私は、神が目を留めるはずがないと確信していましたので、出て行こうとはしなかったのです。
いやしの祈りが進み、同室の方が美津子さんに紹介して下さり、私たちが近づいて行くと、
「肝臓の悪いのは、あなたたちじゃありませんか。何故、出てこなかったのですか」と言われてしまいました。私はあっけにとられました。
「神が我々を見ていたというのか、いやいや、そんなはずはない」。
知性の中で私が言い合っているのです。
麻衣(注・次女)が祈られ、「肝臓の先が白っぽくなっていますね」と美津子さんがおっしゃいました。
「へぇー、レントゲンで見るように形が見えるのか」と驚きました。
「こんなふうに見えた場合は治りますから」。
私は、「おいおい、そんなこと、言ってしまって大丈夫なのか」と半信半疑でした。
私はピーター先生に祈られ、倒れました。暖かいものが身体を包みました。次に美津子さんが祈って下さいました。
私はあなたの苦しみを知っている。
だれもあなたを裏切った者はいない。
麻衣のアトピーは、主が私をリトリートに導く、主のタイムテーブルであったことを知りました。キリストの愛との出会いが、子羊の群れの出会いともなりました。
この美津子さんのことばを聞いた時は、号泣しました。男が人前で泣くことは恥ずかしいことですが、どうにもなりませんでした。その時、私の過去が走馬灯のように私の頭の中を過ぎ去って行きました。キリストの愛に傷ついた幼少の時代も、神に裏切られ、教会と人にも裏切られたという思いも、キリストの愛に吸収されて軽くなったことを昨日のことのように思い出します。賛美の中で、すべての過去の一コマ一コマに主がふれ続けて下さっていると思います。主の愛が飲み込む時、深いいやしが流れ、いつも主の愛の眼差しがあったことに感涙するのです。
あの1992年のリトリートが主の招きであったとしか思えないのです。愛の婚宴に招いて下さったキリストに向かって生きるのみです。
私を呼び続けて下さった方に喜びを禁じ得ません。
1996年4月14日
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