明美さんとの出会いのことは、忘れようにも、忘れようがありません。
保谷の I さんのお家で開かれた集会でした。たくさんの人が来られていて、玄関口あたりまでいっぱい、全くの初めてという方の多い集まりでした。
明美さんの証しにあるように、私は自分の主との出会いの証しをしていましたが、もう終わろうという寸前に、突然遠方から来て、もう時間がないので祈ってほしいと言い出される方があって、急に祈りになったのです。
「イエスさまを信じますか、信じるという方はここに来て下さい」と言って、座ぶとんを並べたのです。数人の方が出て来られ、信じる祈りをしました。
その途中でした。「イエス・キリストを信じます」と前で座っておられる方々が口にされたとたん、少し離れて座っておられた明美さんが倒れて、叫び出されたのです。すさまじいほどの泣き声と叫び。天井が何回も飛んでしまうほどの叫びで、人間があんなにまで叫べるのだろうかというほどの叫びだったのです。
私はあれ以降、今に至るまで、祈りの中で大声で叫ぶ人にはかなり出会って来ましたが、しかし、明美さんほどの人は一人もおられません。泣き出そうが、泣き出すまいが、叫ぼうが、叫ぶまいが、主のされるいやしに違いはありませんが、大きく叫ぶ人には、その叫びが必要なのだ、いやしのために必要なのだ、と感じるようになりました。激しい聖霊体操も、大きな声も、みんな主のされる一つの演出なのでしょう。
そこに、ある熟年の御夫妻がおられました。ご主人は初めての集会。ご家族の長年の信仰を反対し続けておられた方だったということはあとで知りました。その全く初めての方の前での叫びですから、どういうことになるか、びっくりされ、驚くだけでなく、異様に感じて去ってしまわれるかしら、と思っていましたが、何と逆で、この集会で「神はおられる」と確信されたというのです。これもうれしいことでした(ついでですが、この御主人、御家族が行っておられる教会の規約では洗礼前に半年の準備期間がいるのですが、このあと、飛び込みのように洗礼を認められ、すぐに受けられたのを懐かしく思い出します)。
明美さんがすさまじい声で泣き叫んでおられる時、そっと耳打ちして下さる人がありました。「幼い頃、親に捨てられた人なの」 叫びの中に「ママちゃま」という声があり、幼い頃の傷に対するいやしだ、とは感じていましたが、昔に戻ってのいやしだったのですね。明美さんは、育てて下さったお母さんのことをママちゃまとは呼んでいない、と言われましたから、きっと捨て去ったお母さんをそう呼んでおられたのでしょう。叫びがおさまる頃から、両手が上がリ、賛美に変わり始めました。
そして、明美さんが「なでまくり」と書いておられますが、私の顔といわず、全身をなで回されるのです。次第に起き上がって、私を抱きしめ、私の身体が持ち上げられるように、上に上がっていくのです。私の半分くらいしかない、と思えるくらいの小柄な明美さんが、私を引き上げられるのですから、びっくりするやら、恐いやら。あとで聞くと、イエスさまが明美さんを抱いて、持ち上げられたそうです。だから、明美さんが抱きしめている私の身体まで一緒に持ち上がったとか。
あの持ち上げられるような感覚、そして、明美さんの舌がグルグルと動いて止まらない激しい異言、どの一つを思い出しても、鮮やかにあの時の光景が浮かびます。すさまじいものでしたが、明らかに、主がタッチしておられるという思いがあって、感動し続けていました。一つの荒療治でしたが、明美さんは変わられました。
以前の明美さんは「いつもいつも明るすぎて人を笑わせてばかり。泣いたところなんて一度も見せたことのない人だったの」とまわりの人たちが言われていました。その明美さんが主のいやしを受けて、大泣きに泣き、舌が回って口がきけないほど。そして、やっとほんとうの明美さんに戻されたのでしょう。決して、無理して明るく振舞っておられたわけではないでしょうけれども、でも、ほんとうの明美さんではなかったのでしょう。
本人さえ気づいていない、見ようともしていない傷がいやされ、本来の自分に変えられて行く。「何これ? 冗談? 私には無関係、私はいやされる必要ないもの」と御本人が書いておられますね。自分にはいやしはいらない、そう言えるほど、実はキリストのいやしが必要とされていたのだと思います。いやしは、本人が望んでも与えられますが、望みもしないのに、主の方から注いで下さる。キリストのいやしのすごいところは、そこにあります。
そして、「その夜から、聖書はどこを開いても、神さまの『愛しているよ』という語りかけでいっぱいなのです」とありますね。
神の愛に目が開かれて行く。「聖書の全部が愛の証明」とまで書かれていますね。自分に対して、この私に対して、神が神の側から愛を現して下さる。
本人には一体何が起こったのか、何がいやされたのか、すぐには分からなくても、主は御自分の願われたままにいやしの工事を進められる。それはこの魂がキリストに至るため、キリストに戻るため。主は一つ一つの魂を決して見逃すことなく探し出し、見い出し、御自分の元へと至らせられるのです。愛にあるよろこびに満ちてほしいため。
神の作り上げられるドラマは、一つとして無駄のないドラマ。演じる側にも、見せてもらう側にも、「感動のドラマ」です。
心のいやしを受けた人は変えられます。明美さんはお嬢さんへの対応が変わった、と言っておられますが、それは結果。ほんとうに変えられたのは明美さん自身です。
神の愛に触れると、自分を許し、自分を愛することができるようになるからです。そして、主の愛を受ける心がいよいよ開かれ、神の愛が分かって行くのでしょう。そして、分かるほどにいやされ、いやされるほどに分かって行く。
分かっても、分かっても、分かり切ることのできないほどの主の愛。こんな愛だからこそ、今、分からないこともよろこびです。分かっても、分かっても、なお分かりたい。主への想いは主の愛の深さに比例して、尽きることがないのでしょう。
そして、分かりたいという私たちの願いよりも、さらに強く主は分かってほしいと願っておられることでしょう。主は愛。愛の愛ですね。
尽きることのない愛に感謝して。
1993年11月2日
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