もうひとつの目     
ピーター
 ガリラヤ湖に行ったとき、この湖にはイワシのような小魚がたくさんいると知りました。他にも有名なペテロの魚というのがいますが、現在漁業の対象となっているのは、ガリラヤイワシだそうです。舟からたくさんのイワシが陸揚げされているのを見ました。ペテロもこんな魚を採っていたのでしょう。
 湖のそばには、ペテロ召命教会が建っています。漁師だったペテロは、ある日、イエスさまに出会います。魚をとることだけが人生だった彼に、「おまえを人をとる漁師にしよう」と主が言われる。ペテロは何を考えていいのか分からず、とっさに主に従う決心をしました。考えれば、おそろしい話です。一家の主人である彼が、家族を放って行くなんて、あまりにも無責任な話です。遠い聖書の世界だから呑気に読んでいますが、自分の家族の中でこんなことが起きたら、人はどう対処してよいか分からなくなるでしょう。
 しかし、主のコーリングというのは、二千年前も今も、ラディカルな反応を起こすものなのです。コーリングとは、新しいいのちへの飛躍だからです。古い殻が脱ぎ捨てられ、蛹が蝶になるごとく変化してゆく過程には、どうしても通らなければならない生みの苦しみがあります。ペテロは「人をとる漁師にしてあげよう」というイエスさまのことばを、どの程度理解していたでしょうか。よく分からなかったが、呼んでくださった方に自分の人生のすべてをかける魅力を感じたのでしょう。それにしても、なんという決断だろう。家族を第一とするか、神を第一とするか。人は、かならずこの狭い関門を通らなければならない。いのちの門は狭い。狭いが、ここを通る者だけが、豊かないのちの次元を知るようになるのです。
 人生には節目があります。人の魂が神のコーリングに聞き従う時のみ、魂は成長の節目をつけてゆく。私は、そう信じている。生命はゆっくりゆっくりと成長しているように見えますが、いのちの進化は、実に節目ごとに飛躍的に成長するのです。ある時、魂は激しく燃え、今までとはまったく違う世界に飛躍する。そんな時が、神のコーリングを聞くときです。人の魂は、未知との遭遇によって、激しく燃える。
 いのちは、飛躍する。飛躍して、新しい次元の世界に入る。生命の進化は、決して遅滞した流れではなく、何かに衝突し、思いもかけない方向に流れてゆくとき、新しいいのちを生みながら、新しいいのちの形態をとりながら、飛躍的に進化するのです。
 たとえば、あなたがどうしようもない問題で苦慮しているとしよう。出エジプト時のイスラエルの民のように、前方は海、後方にはエジプトの大軍が押し寄せてきているような切羽詰まった状態にあるとしよう。いったいこのような状況からいかにして抜け出すことができるのか。今までと同じような考えをしていたのでは、崩壊あるのみ。
 そんな時、神の人モーセはすっくと立ち上がり、「汝ら、静まれ。そして、神の大いなる救いを見よ」と大声で呼ばわりました。イスラエルの民の運命は、この瞬間、大きく飛躍したのです。現象世界では、敵にとりかこまれどうしようもないところまで追いつめられていたのに、いのちは突然と突破口を見いだし、モーセのことばと共に、激しく反応し、予想もしない方向に流れるようになりました。すなわち、紅海の水は真っ二つに割れ、民は乾いた海の底をわたって対岸に辿り着き、追ってきたエジプトの大軍は、再びおおってきた海の水の下に藻屑となって散ってしまいました。
 このいのちの飛躍を、信仰といいます。信仰は、現象世界だけを見ていない。切羽詰まった現象世界の上に、その背後に、神の大いなる救いが待っているのを「見る」のです。だから、信仰は、現象を飛躍する。飛躍して初めて知る新しいいのちがある。
 日本だけではありませんが、世界は今、混乱の極みに向かって、盲目的に進んでいますね。旧約聖書にあるユダヤの国の末期状態にそっくりです。混乱に混乱が重なり、人々はどうしていいか、何を目指していいのか、分からなくなっている。国家的スケールから、個々人の生活まで、混乱という得体のしれない怪物が侵略している。
 こんな混乱の時だからこそ、むしろ、主の前に静まるのです。天と地をつくられた主以外に、いかなる救いもない。いのちは行き詰まると、いのちの根源である方のもとに帰ってこようとします。もう従来の生き方では、どうしようもない。ここで飛躍するか、死を選ぶか。いのちの選択が迫られている。
 私は、個人も国家も、同じように考えています。聖書が、両者を同じように取り扱っているからです。国家はそのメカニズムにおいて個人よりはるかに複雑なのですが、いのちの形態からみるなら、単純です。いのちは死を選ぶか、飛躍するか。そのどちらかです。巨岩が道にたちはだかり、旅人は意気消沈して沈没するか、それとも岩を飛び越えるようないのちの飛躍をするか、個人にも国家にも、生命の選択があるのです。
 信仰は、飛躍する。神がおられることを知っているから、現象のはるか彼方を見ようとします。現象にまどわされる近い目ではなく、遠い目をもって見る。
 信仰は、キリストへの賭けです。現象の困難よりも、目には見えないが、現象世界を全部支配されている方に全幅の信頼をする。その決断なのです。
 私の想像の目は、二千年前、ガリラヤ湖でペテロを呼ばれた神の御計画を見るようです。一介のしがない漁師に目を留められた方は、この教育もないぶっきらぼうな男に、来るべき神の国の鍵を授けようとされたのです。もしあの時点でペテロが神の御計画の全貌を知らされていたら、あまりの驚きに気絶してしまったでしょう。ペテロはすべてを知らなかったが、今自分を呼んでくださっている方には、自分の人生の鍵があるのを直感したにちがいありません。そして、この方にすべてを託し、ビジネスも家族も捨てて、飛び出した。すさまじい飛躍です。
 そして、後世のわたしたちは見るのです。一ペテロの個人的な飛躍は、神の国の大きな飛躍であったことを。「お前を人をとる漁師にしよう」といわれた主のことばを、ペテロはほとんど理解していなかったでしょう。信仰は理解ではない、飛躍なのです。いのちの飛躍なのです。分かったから信じるのではない。分からないが、呼んでくださっている方に向かって、一歩踏み出す勇気なのです。
 この一歩に、主のよろこびがある。

  1998年7月15日                  

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