もうひとつの目     
ピーター
 あるリーダーが子羊の群れ批判に痛んで言います。「あの群れには、牧師がいない。牧師のいない群れは危険だと言われるのです。せっかくキリストを信じても、みことばを十分に教えることができない。カウンセリングの専門知識がないため、困っている人をどのように指導してあげたらいいのか、ほとほと困ります。」
 それは素直な声でしょうが、牧師のいる群れとは何のことか、まず考えてみて下さい。
 一人の牧師が、みことばを教え、羊達にきめ細かいケアをする‥‥というのが、理想的な牧師かもしれませんが、まず教え自体が牧師の考えに基づいていますね。それに反することを羊が言い出そうものなら、大変なことになります。牧師中心の群れというのは、牧師に忠実であるということが、まず要求されます。かならずしも主に忠実であるとは、かぎりません。牧師が、いやしは危険だと言えば、その群れはいやしを求めなくなる。それでは、もっと聖書的な牧師はいないかと、教会探しがはじまります。そして、仮に理想的な牧師に出会えたとしても、またその牧師の聖書観から一歩もでることはできないのです。人を求める人は、人によって裏切られる。
 牧師達も、得意な分野と不得意な分野がありますから、カウンセリングが得意な牧師もいれば、説教だけが得意という牧師もいるでしょう。カウンセリングの専門の牧師のところで、心のいやしを祈ってもらえるから、その教会に行くという人は、やがてカウンセリングという媚薬の効き目がなくなると、牧師に失望するようになります。人を求める人は、人によって裏切られる。
 人が人を求めるというのは、自分の納得する人を求めるということであり、これはやればやるほど泥沼にはまって行きます。一時的な効能はありますが、所詮媚薬です。カウンセリングだって、聖書研究だって、みな立派なことなのに、神のものが媚薬に変化するのは、人は自分に納得することをカウンセリングに聖書研究に求めているからです。私の納得が大事なのです。施す側も、受ける側も、人の納得という自我を中心としているからです。
 それに反して、賛美の信仰は、牧師ではなく、ほんとうに主だけでよいのだという信仰に立つと言うことです。自分の納得などどうでもいい、十字架の主にすべてをかけるという信仰です。みことばを教えるから羊が成長するのではなく、カウンセリングが行き届いているから羊が養われるのではなく、ただ主がおられるから、羊飼いが羊のケアをしてくださると心から信じる信仰です。
 賛美の信仰が見えないのは、自分の納得をまず第一に求めているからです。「あの人は、洗礼を受けたが、ここではみことばの教えがないために、聖書中心主義の他の教会に行った‥‥」「あの人も深いいやしを求めていたのだが、インナーヒーリングを祈ってくれる働き人がいなかったため、賜物のある牧師を探してここを去りました‥‥」
 そんな声もあるそうですが、問題は、そんな声を聞く時のあなたの信仰です。あなたも心の内で、「そうなの」と思っていませんか。もしそうなら、もう一度、主の前だけに静まってほしいと思います。あなた自身が、人を求めているからです。あなた自身が、自分の納得の行く牧師イメージを求めているからではありませんか。
 なぜ、「主がおられるから、人のケアは一切要らない」と言えないのですか。主だけに任せるということが、そんなに不安なのですか。人々が、子羊に来て、今度は知的なものが足りないから他の教会に行きたいというのなら、それでいいではありませんか。知的な納得がいる人は、やがて媚薬が切れる時、禁断症状を起こすでしょうが、どうしても薬が必要だというのなら、勝手に飲めばいいのです。冷たい言い方をしますが、羊が主以外のものを求めて勝手に彷徨する時、主は介入しませんよ。どんなに劇薬を飲んでも、放って置かれる。主だけでよいと羊がみずから悟るまで、羊のわがままを許されるのです。
 賛美の信仰は、主だけでよいという信仰です。みことばは、主がみずから教えて下さる。主がみずから教えないみことばは、どんなに立派に積み重ねても、人間のプライドになるだけです。
 賛美の信仰は、働き人が自分の体験や賜物にしたがってカウンセリングをするのではなく、主が賛美の中で、必要な人にはいやしを行って下さると信じる信仰です。これは、個人的に祈らないということではありません。導かれるなら、それもするでしょうが、基本は、働き人の祈りがあってもなくても、主がおられるという絶対の信仰に立っていると言うことなのです。
 美津子さんが、If you turn the corner, you will see Me.(角をまがれば、主にお会いできる)と聞いたと言いますが、それは迷っているリーダーにも当てはまる言葉だと思います。古い皮袋の考えがまとわりついているリーダーが、「私がケアをしなければ‥‥」「もっと伝道者が指導力をもってくれればいいのに‥‥」と愚痴をこぼしているのなら、曲がり角にさしかかっていますね。もう古い皮袋は要らないでしょう。思い切って捨てたら、角はすんなりと曲がれますよ。
 賛美の信仰は、群れは主のものである、主がここに臨まれている、主だけを賛美しようという信仰です。「賛美の中に、すべてが整えられる」と約束してくださった主です。羊がどこを彷徨しようが、そんなことは羊飼いに任せればいいではありませんか。わたしたちは、賛美から賛美に行く。

   1997年2月18日
(c)Kohitsuji no Mure Christ Curch